良い会社とは何か:一人の会社員として学生や経営者、世の中の悩めるあらゆる人へ

はじめに

みんな良い会社に入りたいと思ってるだろうし、そのために努力もしてきただろう
それなのに何故か裏切られる人が多い。本当に良い会社なら入社後にギャップを抱くこともないはずだ。
多くの人にとっていい会社とは大企業で、その理由は同じ会社に定年まで勤めることが幸福だと信じているからだろう。
私も例にもれず、そういう考えだった。しかし、それは最も不幸になる選択だった。
定年まで働ける会社など、無いのである。
今の時代40年は働くことになる。過去40年、日本企業は何万人リストラしてきただろうか?
自分だけがその例外だと考えるのはあまりに愚かである。
企業はもはや、社員の将来を保証することができなくなってしまった。

良い会社とは生涯に渡って社員の幸福を保証してくれる会社である。
かつての日本の大企業はたしかに良い会社だった。
しかし、近年その体力は無くなってしまったように見える。 大企業というような漠然とした言葉ではなく、
より具体的な言葉で良い会社をイメージする必要があるのではないだろうか?

良い会社とは誠実な会社である

良い会社とはお客様満足度NO1の会社でもなければ、リストラしない会社ではない。
給料が高い会社でもなければ、残業のない会社でもない。
良い会社とは社員の幸福を保証できる会社である。
風通しのいい会社や社員満足度の高い会社はひょっとするとそうかもしれない。
しかし、それを実現するために必要なのは高い給与やリストラしないことではない
ただ誠実であることが重要なのである。

大企業であったとしても、不誠実であっては良い会社にはなれない
不誠実な会社では物事の正しさや誠実さではなく、社内政治の力で物事が決まる。
そこは不正の温床になり、命に関わる部品や会計情報の欠陥が隠蔽されたりするのである。
時事ネタなので補足するとタカタ、東芝が上記のようなことを行った。
内部の不正が会社の寿命となるのは、掘り起こせばいくつも出てくる。
不誠実な会社はあなたが定年するよりも前に、あなたをリストラすることになるだろう。
東芝のために努力してきた社員が内部の不正のために苦しむのは本当に可哀想だ。
そんな生き方を幸福と言えるだろうか?
会社は社員の幸福を守るために誠実でなくてはならない。

誠実な会社は風通しが良い

誠実な会社というのは風通しがよくなくては実現できない。
社員が人間である限り、不正の火種は常にありつづけると考えていなくてはいけない。
不正の火種を消し続けることが会社として全うしなければならない責任なのである。
そのためには不正の火種を知るための風通しの良さが実現できていなくてはいけない。
会計や会社の重要な決定への不正、命にかかわるような部品ではなくても、
製品に関する不正はもちろん起きてはいけない。
正しくないことに対して、正しくないと言える場を維持する必要がある。
風通しの良さとは末端の人間が誰にでも気兼ねなく意見を伝えられるということである。
これを実現することは蔑ろにされがちだが、健全な会社を維持するためにはなくてはならない要素である。

大きな問題を例にしてきたが、会社が日々晒される小さな問題を初期で食い止めるためにも重要である。
例えば、炎上するプロジェクト、多くは取り返しのつかない状況になってから表面化するが、
内部にいる末端の社員はそれに気づいている場合が多い、タカタの不正もそうだったのではないだろうか。
取り返しのつかない状態になる前の初期の段階でこれを食い止めることが、
良い会社として社員の幸福を守ることに繋がり、ゆくゆくは会社の信頼や利益を守ることになるのである。

風通しの悪い会社がこれらを実現することは難しい。
風通しの悪さは大きな問題の火種を隠蔽することに繋がるからだ。

私の体験では、うつ病になるずっと前にそのサインが出ていた。
小さな火種のうちにそれを消し止めることができなかったのは、私の努力不足だったかもしれないが、
(個人的には出来る限りのことはすべてやった、努力不足とは思っていない。
あそこまで相談するのは珍しいぐらいだ。具体的にどういうことが起きていたかは別記事を読んでほしい) 会社の風通しの悪さが大きな要因であったように思う。
小さな火種を放置するということは社員ひとりひとりが抱える問題を共有できないということでもある。
何度も上司と相談をしてきたが、それに対して対応が十分でなかったことが、
最終的に私のうつ病と休職、退職へと繋がった。そうなるずっと前から対処することはできたのだが、
それはなされなかった。少なくともNTT-ATは私にとっての良い会社ではなかった。

誠実な会社の社員は誠実である

不正が起きない環境作りとは非常に難しい。人間というのは面倒を嫌う生き物であり、
たいてい他人の面倒事にはかかわりたくないものである。
例えば、ある社員が不向きな部署へ配属され、うつ病になろうとしているとき、
その面倒事に関わろうとしないということは、いかにも自然なことである。
そういうことに首を突っ込んで、振り回されても自分に得がないなんて思っているのではないだろうか?

実はそんなことはない、その社員が自殺したり、うつ病の朦朧とした意識の中ミスをしたりしたら、
その影響は会社全体でカバーすることになる。未然に防ぐことで会社の将来の損失を防ぐことができるのだ。
世の中残念なことに会社の将来の損失を防ぐことは評価されにくい。しかし、非常に重要なことである。 その社員は私のようにネットワークでは人並み程度の働きしかしないかもしれないが、
ソフトウェア系であれば人並み以上の働きができる人材なのかもしれない。
人には得意不得意があるし、そこをカバーし助け合うのが会社という共同体である。
その機能が十分に果たせていないとき、あなたは誠実にそれを助けてあげればいい。
誠実な会社であれば、社員がその能力を存分に活かし、利益を出すことを咎めないはずだ。

不誠実な会社ではそれが許されない。助けたことが裏目に出て、飛ばされる可能性もある。
そんな組織で、人が人を健全に助け合うということは機能しない。
あなたが助けられる立場のとき、まわりから見放されないと本当に言い切れるだろうか?

プロジェクトでも同じことが起きる。無理な仕様、無理な納期、セキュリティ上の不備。
それらに気づいていたとしても誠実な社員がいなければ、それに意見することはできない。
不誠実な組織では正しいことが評価されず、罪になるのである。
仕様の不備、セキュリティ上の不備を指摘したことであなたはプロジェクトを外されるかもしれない。
そんな組織が本当に良い製品を作っていると言えるだろうか?
タカタのエアバックのようなことが本当に他人事であると言えるだろうか?
あなたその仕事を胸を張って人に説明できるだろうか? 子供にその製品を作り上げたことを胸を張って説明できるだろうか?
その仕事で食べていくことは本当に幸せなことであるだろうか?
その会社の不正は未来永劫、明るみに出ないと言い切れるだろうか?

そんなことはないはずだ。あなたは誠実に働き、健全に評価されたいと願っているはずだ。

不誠実な会社というのは不誠実な社員が作り上げるものである。
不誠実な社員が社員の誠実な取り組みを邪魔することで、会社を徐々に不誠実なものに変えていくのである。
誠実な会社を維持するというのは非常に難しいことでもある。
それは一人一人が勇気と正義感を持ち、誠実に仕事と向き合う必要があるからだ。
人間どうしても手を抜きたいと考えるものである。その手抜きは小さな不正かもしれないが、
徐々に周りを巻き込み、不誠実な会社を作り上げることに繋がる。
あなたが誠実な会社で働き、幸福な社会人生活を続けたいのなら、勇気を持ち健全な仕事をしてほしい。

それがあなたの会社の誠実さを維持することに繋がる。
誠実な会社とは、誠実な社員によって実現される。

良い会社は社員の不満を放置しない

良い会社は社員が誠実であり続けられるように努力する 良い会社は不誠実な社員のリスクを理解している。
そして、努力せず放置していた場合、社員の誠実さは徐々に失われることも理解している。

そのために良い会社は社員の不満を放置しない。
会社はあらゆる制度で運用されているが、制度を運用するのは人である。
人である限り、なにがしかのミスは起きるものである。
たとえば、私の場合、最初の配属でミスがあった。
新卒の段階でその人のスキルを十分に把握できないことはやむを得ないことだ。
しかし、それがミスであったのであれば、深刻な事態に発展する前に手を打つ必要がある。
平等な制度のもとで運用されているからと言って、それが平等な結果をもたらすとは限らないのだ。
社員就業規則というのは基本的には会社にとって有利に、ミスというものが無いように作られている。
規則を表面通り実行したからと言って、健全に会社を運営できているわけではないということを理解しておかなければいけない。

些細なミスを重大な事態に発展させないためには、社員の不満を放置するような会社であってはいけない。
不満というのは会社に対する問題点の指摘である。
これらを真摯に受け止め、良い会社っを維持していく体制が作られていなくてはいけない。

社員満足度というのはこういったことに影響する。
いつまでも時代遅れの人事制度、仕事の進め方、評価制度、それらに縛られていては会社自体が時代遅れになってしまう。
そうしたところでまず最初に指摘してくれるのが社員である。
まずは不満という形でそれが現れる。社員に我慢させるような教育はしないほうがいい。
改善という重要な機会を失うことにつながるからだ。

例えば、社員に使いものにならないようなノートPCをいつまでも使わせていたとしよう。
起動に15分以上かかって、簡単な業務支援ツールも作れないようなノートPCである。
それらが、業務の遅延になっていたとしても社員が不満を口にせず我慢していたのなら、それは非常に重要な機会を失っている。

良い会社は社員の不満を放置せず、良い会社であるための努力を続けている。
良い会社とは社員の不満に耳を貸し、それが改善できるように努力するものである。

私の場合はNTT-ATという会社で、明らかに不向きな仕事を任されていた。
うつ病にまでなっても上司は不向きであることを認めようとはしなかった。
それどころか上司は「個人的にはうつ病ではないと考えている」と私に考えを話していた。)
初期配属の誤りを容易に訂正できないことに不満を持っていたが、会社がそれを相手にすることは無かったように見えた。
今なおそうした体制が続いているのだとしたら、やはりNTT-ATは私の定義する良い会社ではないのだと感じる。
(もしかすると誰かにとっては良い会社なのかもしれないが、私にはとてもそうは思えない)

良い会社は仕事の問題を放置しない

人間のやることにはミスがつきものである。
ほとんどの場合、物事というのは計画通りに向かわない。
人間は神様ではないので、未来を正確に言い当てたり予言したりはできないのである。
それでも人は自分たちの力を神のそれに近づけようと、日々努力をするのである。
しかし、人間にその力はなかった。もしその能力があるのなら、
バベルの塔を建設する偉業は成し遂げられていただろう。

100%というのはありえないと言うことを、人は認識しなくてはいけない。
完璧な人員配置は存在しないし、完璧なプロジェクトも存在しない。
理想の人材というのは揃わない、プロジェクトは途中で意図しない方向に逸れたりする。
それは良くないことかもしれないが、決して悪いことではない。

会社は人間である社員に対して神の御業を要求してはいけない。
そんなことを要求したら、社員はプロジェクトの遅延を隠蔽し、
会社全体に関わる問題を勝手に解決しようとするだろう。
それらはときとして、会社全体を揺るがす大問題に発展する。

会社は問題が発覚したとき、それらを共有しやすい環境を作り上げる必要がある。
そのためには社員一人一人は完璧でなくても良いと言うことを教え、 問題を会社全体で解決する仕組みを実現しなくてはいけない。
人が人であってはいけない組織はいびつである。

私の場合、NTT-ATという会社で問題を会社と共有することが許されなかった。
何十回と上司と相談したが、仕事と自分の適正に疑問を持ち悩むことを悪いことであるように教えられた。
確かに良くないことではあるが、それが悪いことであるように言われたのはショックだった。
学生時代、ソフトウェアだけを志してきた人が、ソフトウェア開発をしたいと言って入社したのに、 配属されたのはネットワークの部署である。悩むのは当然のことである。
(それもソフトウェア開発においてプロレベルのスキルがあった。)
最終的に私は潰れ、うつ病になる。会社にとって問題を共有しなかったことにメリットがあったとは思えない。
おそらく上司もそうした問題を共有できない環境に置かれていたのではないだろうか?
会社全体として問題を共有できないと、人は問題を個人に押し付けるように動くのである。
こうした悲劇が起きないよう、会社は組織として問題を共有できなくてはいけない。

良い会社は社員の問題を放置しない

人間というのは常に健康というわけではない。
風邪をひくこともあれば、怪我をすることもある。
体調が悪くても勤務させたり、怪我をしていても無理をさせたりさせてはいけない。

人の人生はうまく行っていることのほうが少ない。
みんな悩みを抱えながら生きているのである。
会社は会社を支えている社員がそういう個人であることを忘れてはいけない。
本人やその家族が重い病気にかかったり、亡くなったり、 子供がいじめられたり、いじめたり、自殺したり、人を殺したり、
人生も長ければ、そういう不幸がつきものなのである。

特にこれは心の問題とも密接に関わる。人は仕事以外にも問題を抱えているものである。
社員は命令であるのなら日付が変わる頃まで仕事をする。
それは当たり前のことかもしれないが、本人は愛する家族と過ごしたいと願っているかもしれない。
いじめに悩み部屋から出ない娘のためかもしれない、
難病に苦しむ妻のためなのかもしれない。
人は仕事のためだけに生きているわけではない。
会社はそれを理解した上で社員に命令しなくてはいけない。

会社は社員の健康状態や家庭の状態にまで気を使うべきである。
会社がいくら社員に変わらぬ性能を望んだとしても、叶うことはない。
その社員は退職するか、休職するか、死ぬかのいずれかである。
そいつに根性がなかったのだと、現実逃避をすることは容易かもしれない。
しかし、社員は皆、自分たちが機械でないことを知っている。
会社が過ちに気づかない限り。彼らは自分たちの職場を探し出すだろう。人間の職場を

私の場合、うつ病で仕事ができない時期があった。
その時、会社は最低限のことしかしてはくれなかった。
うつ病からの復職というのは、非常に慎重に行う必要があるのだ。
社員の健康状態を正確に把握し、最初は勤務軽減などを行う場合がある。
会社は私の訴えに耳をかそうとはしなかった。
勤務軽減の必要性を訴える場にすら、立ち会わせてはもらえなかったのだ。
復職にむけた計画の説明はなく、私は会社から放置されたような気持ちがしていた。

良い会社で働くために

あなたが今から就職する人、学生なら

あなたが今から就職する人で会社を選べる立場なら、一人一人の社員を見てほしい。
誠実に仕事に取り組めているだろうかという観点で話をしたらいい。
仕事に情熱を持てず、諦めたように働いていたのならその会社では誠実さが機能していない。
誠実な会社なら仕事に情熱を持てないことに諦める必要はないからだ。

誠実な会社であれば、仕事に情熱を注ぐことを咎めはしない。
社員の生産効率を上げる方法はそれしかないからだ。
ただし、情熱はコントロールできない。 情熱というのは、その人がどういう人間だとか、どういう経験をしてきたかに大きく左右されるからである。
もしも、すべての社員が仕事に情熱を持っている会社があるのなら、
それは良い会社に違いないだろう。

あなたは社員の情熱を見て会社を探せば良い。

あなたが社会人なら

転職するというのも手段の一つだ。しかし、転職はしたくないのではないだろうか?
私もそうだった。不向きとは言え技術を教えてくれ、それを実践までさせていただいた。
会社に恩を感じていたし、なにより私はNTTというものを愛していた。
末端とは言えグループに貢献できることを誇りに思っていた。
(だからこそ、その内部を知ったときの失望も大きかった)
あなたもそういう人かもしれない。

ならばできることはもう一つある。
会社を変えるために声を上げることである。
問題は問題と認識されなければ、決して改善されることはない。

ただし、オススメはしない、あなたは周囲から煙たがられるようになるだろう。
今の時代組合もあまり役には立たない。
最終的にあなたは転職せざるを得ない状況に追い詰められることになる。
(あなたが退職しても、あなたがやったことは有意義なことである。
あなたの考えや行動は見ていた人の心に何かを残せるはずだ。)

良くない風土が浸透した会社で仕事に情熱を持つというのは非常に難しい。
納得のゆく仕事がしたいのなら、転職したほうが良い。
ただし、次の会社が本当に良い会社とは限らない。

常に忘れてはいけないことは、誠実に仕事と向き合う事である。
良い会社は決して不誠実な人間を受け入れない。
不誠実さは伝染し、企業風土を悪くすることを理解している。
あなたはあなたの信じる正しいもののために誠実に努力をしてゆけば良い。

悪い会社ではあなたの誠実さは非効率、愚かと評価される。
誠実さは会社をフィルタする良い道具になる。

あなたが経営者なら

健全な組織ができているか、厳しい目で監視するべきである。
社内政治というものは極力排除したほうが良い。
会議は根回しの結果しか報告されないだろうが、そういう文化を排除するべきである。
末端の人間は根回しなどできない。会議にすら呼ばれることはない。
しかし、企業の不誠実な行動に疑問を持つのは末端の人間である。
不誠実な支持をした人間が報告したのでは、かんたんに隠蔽できてしまう。
わたしは、NTT-ATにいたとき休職を何度かしていた。
このとき復職やその後の対応を決める会議には出席させてはもらえなかった。
そのときの会議に出席し、きちんと対応が議論されていたら、
私は今もNTT-ATで働いていただろう。
あなたがそうした体質の企業を望んでいるのなら構わないが、
やはり会社というのはお互いに支え合う組織であったほうがいい。
末端が無視され切り捨てられるというのは健全な会社ではないように思う。

仕事を愛し、その仕事をする自分自身を愛せているか、考えてみてほしい。
経営者なら、社員がそういう気持ちで仕事に向き合えているか、
考えてみても損はないのではないだろうか?